マタ・ハリ ― 国家が生み出したスケープゴート

プロローグ

「目隠しをしますか?」
兵士が静かに尋ねました。
1917年10月15日。
夜明け前のフランス・ヴァンセンヌ城。
冷たい朝霧が立ち込める処刑場に、一人の女性が立っていました。
年齢は41歳。
長い黒いコートをまとい、帽子を深くかぶったその女性は、驚くほど落ち着いていました。
普通なら足は震え、涙を流し、命乞いをするでしょう。
しかし彼女は違いました。
兵士が差し出した黒い布を見つめると、小さく微笑みます。

「いいえ、結構です。」
彼女は目隠しを断りました。
さらに両手を縛ることも拒否したと言われています。
まっすぐ前を向き、十二人の兵士たちを見つめます。
兵士たちも戸惑っていました。
目の前にいるのは、冷酷な殺人犯ではありません。
何年も前まで、ヨーロッパ中の劇場で喝采を浴びていた、美しい踊り子だったのです。

指揮官がゆっくりと右手を上げます。
静まり返った処刑場。
誰も言葉を発しません。
その沈黙を破ったのは、一つの号令でした。

「構え!」
十二丁のライフルが一斉に持ち上がります。
それでも彼女は目を逸らしませんでした。
逃げることも、うつむくことも、祈ることもなく、ただ静かに兵士たちを見つめ続けます。
そして――

「撃て!」
乾いた銃声が朝の空に響き渡りました。
一人の女性が、その場に崩れ落ちます。
彼女の名前は、
マタ・ハリ。
新聞は彼女をこう報じました。

「フランスを裏切った史上最大の女スパイ、処刑。」
国民は歓声を上げます。
「よくやった!」
「裏切り者には当然の報いだ!」
誰もが、これで戦争は少しでも良い方向へ向かうと信じていました。

しかし――。
100年以上が過ぎた今、歴史家たちはまったく違う結論へたどり着こうとしています。
「彼女は本当に、伝説の女スパイだったのだろうか。」
実は現在、マタ・ハリが戦争の行方を左右するような重要な機密を流した証拠は、ほとんど見つかっていません。
それどころか、彼女は戦争に苦しむ政府が国民へ示した“悪役”だったのではないか――
そんな見方さえあるのです。

もし、それが本当なら。
世界一有名な「女スパイ」の物語は、世界一有名な“冤罪”の物語へ変わります。
では、一人のオランダ人女性は、なぜ「マタ・ハリ」となり、なぜ歴史に名を刻むことになったのでしょうか。
物語は、今から41年前。
オランダの小さな町から始まります。
第1章 少女マルガレータ

1876年8月7日。
オランダ北部の町、リーワルデン。
一人の女の子が生まれます。
名前は、
マルガレータ・ヘールトロイダ・ゼレ
後に「マタ・ハリ」として世界中に知られる女性です。
しかし、この頃はまだ誰もそんな未来を想像していませんでした。

「お父さん、見て!」
まだ幼いマルガレータは、新しい帽子をかぶって鏡の前でくるりと回りました。
父は笑顔で拍手を送ります。
「よく似合っているよ。」
母も微笑みながら娘の髪を整えました。
それは、ごくありふれた家族の風景。
しかし、この少女にとっては何一つ不自由のない、幸せそのものでした。

父のアダム・ゼレは帽子店を営む実業家で、投資にも成功していました。
裕福な家庭。
美しい家。
使用人のいる暮らし。
当時としては珍しく、マルガレータは高価な服を着せてもらい、良い教育を受けて育ちます。
町の人々は、ゼレ家を裕福な一家として知っていました。
そして幼いマルガレータも、
「この幸せは永遠に続く」
そう信じて疑いませんでした。
ですが、人生は時として、何の前触れもなく姿を変えます。

ある日。
父が珍しく暗い顔で帰宅しました。
夕食の席でも言葉がありません。
母が静かに尋ねます。

「……何かあったの?」
父はしばらく黙っていました。
そして、小さく答えます。
「事業がうまくいかなかった。」
その一言が、すべての始まりでした。

投資は失敗。
事業は傾き、やがて一家は破産します。
豪華だった暮らしは、一瞬で消え去りました。
昨日まで家にいた使用人はいなくなり、家具は売られ、生活は一変します。

子どもだったマルガレータは、理由までは理解できません。
それでも、家の空気が変わったことだけは分かりました。
父は笑わなくなり、母はため息ばかりつくようになります。
そして、夫婦の言い争いが日に日に増えていきました。

やがて両親は離婚します。
今では珍しいことではありません。
しかし19世紀のヨーロッパでは、離婚は一家の名誉を傷つける重大な出来事でした。
家庭は完全に壊れてしまったのです。
それでも、マルガレータには母がいました。
優しく抱きしめてくれる存在がいました。

「大丈夫。」
その言葉があるだけで、子どもは安心できます。
ところが、その母まで病に倒れます。

1891年。
マルガレータが15歳のとき、母は静かに息を引き取りました。
少女は、父を失い、家を失い、そして母まで失ったのです。

その頃には父はすでに再婚していました。
新しい家庭があります。
マルガレータには、帰る家がありませんでした。
彼女は親戚の家を転々とする生活になります。
昨日まで自分の部屋だった場所は、もう自分の居場所ではありません。

「私は、この家の人間じゃない。」
そんな感覚を味わったことがある人もいるかもしれません。
家族がいても、自分だけが”居候”のように感じる。
食卓では遠慮し、笑うことさえ気を遣う。
まだ十代の少女には、あまりにも過酷な現実でした。
けれど、この経験は彼女の心に一つの強い誓いを刻みます。

「もう二度と、あんな生活には戻りたくない。」
それは、お金への執着ではありません。
幼い彼女が本当に失ったのは、
豪華な家ではなく、家族と安心して眠れる毎日だったのです。
だから彼女は思いました。

「もう一度、かつての幸せを手に入れたい。」
その願いを胸に、彼女は教師を目指して教員養成学校へ進学します。
子どもが好きだったこともあります。
そして何より、自分の力で生きていける仕事が欲しかったのです。
しかし運命は、まだ彼女に微笑みません。
教師になる夢もまた、思いもよらない形で打ち砕かれることになるのです。
第2章 100日で決めた結婚

「先生になりたい。」
それが、マルガレータの新しい夢でした。
教員養成学校へ進学し、自分の力で生きていく。
もう誰かに頼る人生ではなく、自分の足で立つ人生を歩きたい。
そう願っていたのです。
しかし、その夢は突然終わりを迎えます。
ある日、学校中に一つの噂が流れました。

「校長が、あの子を特別扱いしているらしい。」
噂は瞬く間に広がります。
やがて、それは
「校長と不適切な関係にある。」
という話へ変わっていきました。
本当に何があったのか。
現在でも真実は分かっていません。
実際に関係があったという説もあれば、
校長が自分の立場を守るため、若い彼女だけを学校から追い出したという説もあります。
確かなことは一つだけでした。
退学処分。
教師になる夢は、わずか数年で消えてしまったのです。

「これから、どうやって生きていけばいいの……。」
十九世紀のヨーロッパで、若い女性が一人で生きていくことは簡単ではありませんでした。
資格もない。
仕事もない。
実家へ帰る場所もない。
彼女の前には、真っ暗な道しか残されていませんでした。
そんなある日。
何気なく新聞をめくっていると、一つの記事が目に入ります。

「結婚相手募集」
新聞には、年齢。
職業。
収入。
結婚相手への希望。
そんな情報が並んでいました。
マルガレータは、その一つに目を留めます。

「オランダ陸軍大尉 ルドルフ・マクラウド」
安定した収入。
社会的地位。
軍人。
彼女は、しばらく記事を見つめていました。

その夜。
彼女は一人、窓の外を眺めていました。
思い浮かぶのは、幼い頃のことです。
暖かな家。
優しい母。
笑っていた父。
けれど、その幸せは一瞬で消えました。
貧しさは、人から多くのものを奪います。
家族も、夢も、未来さえも。

「もう、あんな思いはしたくない。」
「もう一度、私の幸せを手に入れる。」
彼女は静かにペンを取りました。
そして、その結婚広告へ返事を書いたのです。

返事を送って間もなく、二人は顔を合わせます。
ルドルフ・マクラウド。
オランダ陸軍の将校。
年齢は四十歳。
マルガレータより二十一歳も年上でした。
軍服に身を包んだ姿には威厳があり、落ち着いた口調で話す男性でした。
一方のマルガレータは十九歳。
美しく、聡明で、誰よりも人生をやり直したいと願う女性でした。

二人は何度か会います。
食事をし、会話をし、未来について語り合いました。
そして――

出会ってから、およそ百日。
二人は結婚します。
今なら、多くの人が言うでしょう。
「早すぎる。」
ですが、当時の二人には、それぞれ事情がありました。
ルドルフは家庭を持ちたいと考えていました。
マルガレータは安定した生活を求めていました。
互いに必要としていたのです。
少なくとも、その時は。
結婚式の日。
純白のドレスに身を包んだマルガレータは、幸せそうに微笑んでいました。

「これで、すべてを取り戻せる。」
そう信じていたのです。
裕福な暮らし。
愛する夫。
新しい家庭。
もう二度と、貧しさに怯えることはない。
そんな未来を思い描いていました。
ですが、人生は時として、私たちが一番欲しかったものを餌にして試練を与えます。
この結婚は、彼女に幸せを与えるためではなく、さらに大きな悲劇へ導く入口でした。

夫の赴任先は、オランダから遠く離れた南の島。
オランダ領東インド――現在のインドネシア
そこで彼女は、人生で最も美しい景色と、人生で最も残酷な現実、その両方に出会うことになります。
そして、その異国の地で目にした一つの踊りが、後に世界中を魅了する
「マタ・ハリ」
を誕生させることになるのです。
第3章 南の島で生まれた”マタ・ハリ”

船が港へ近づくにつれ、景色が少しずつ変わっていきます。
どこまでも続く青い海。
ヤシの木が風に揺れ、市場には見たこともない果物や香辛料が並び、空気には甘い花の香りが漂っていました。
「ここが……東インド。」
マルガレータはゆっくりと息を吸い込みます。
そこは、オランダとはまったく違う世界でした。
彼女はまだ知りません。
この島で目にする景色が、自分の運命を大きく変えることになるとは。
理想の結婚生活

夫ルドルフはオランダ領東インド軍の将校でした。
軍人としての地位もあり、生活は決して苦しくありません。
広い家。
使用人。
社交界への招待。
幼い頃に失った「裕福な生活」が、再び彼女のもとへ戻ってきました。

やがて二人の間には長男ノーマンと、長女ジャンヌが誕生します。
小さな息子を抱きながら、マルガレータは思いました。
「ようやく私も、幸せになれた。」
「もう家族を失うことはない。」
「もう泣くこともない。」
そう信じていました。
しかし、幸せとは不思議なものです。
手に入れたと思った瞬間から、少しずつ指の間をすり抜けていくことがあります。
軍服を脱いでも軍人だった男

結婚してしばらくすると、ルドルフの別の一面が見え始めます。
彼は酒を飲む量が増え、家では些細なことで怒鳴り、妻へ暴力を振るうこともありました。
さらに、他の女性との関係も隠そうとしませんでした。
ある夜。
帰宅したルドルフからは酒の匂いが漂っていました。

「こんな時間まで、どこへ行っていたの?」
マルガレータが静かに尋ねます。
ルドルフは答えません。
帽子を机へ投げると、ため息をつきました。

「軍人には付き合いがある!」
「それだけだ!」
「だれのおかげでこんな豊かな生活ができると思ってる!」
「俺に指図するな!」
部屋の空気が凍り付きます。
その日を境に、夫婦の口論は増えていきました。
わずか百日で決めた結婚。
お互いを深く知る時間はありませんでした。
恋愛は相手の長所に恋をします。
しかし結婚は、相手の短所と一緒に暮らすことでもあるのです。
運命の日

1899年。
悲劇は突然やってきます。
二歳になった長男ノーマンが、高熱を出して倒れました。
「ノーマン…」
医師が呼ばれます。
使用人が走ります。
家の中は騒然となりました。

しかし、幼い命は助かりませんでした。
息子は静かに息を引き取ります。

当時、
「使用人が毒を盛った。」
「夫の愛人が復讐した。」
そんな噂がヨーロッパ中へ広まりました。
しかし現在では、先天性の病気や感染症、あるいは両親から感染した梅毒による合併症など、さまざまな説があり、死因は今なお断定されていません。
真実は、もう誰にも分からないのです。
分かっているのは、
マルガレータが最愛の息子を失ったという事実だけでした。
小さな棺の前で、彼女は何時間も動かなかったと言われています。

「どうして……。」
何度問いかけても、返事はありません。
神も、運命も、何も答えてはくれませんでした。
壊れていく家庭

息子の死は、夫婦の心も壊しました。
ルドルフは酒へ逃げます。
マルガレータは悲しみへ沈みます。
二人は互いを慰めることができませんでした。
愛する人を失ったとき、夫婦は支え合うこともあれば、互いを責め合うこともあります。
二人は後者でした。
口論は激しくなり、暴力は増え、不倫も続きます。

「もうこんな生活は続けられない…」
1902年。
二人は離婚します。
何も残らなかった

マルガレータは娘ジャンヌを引き取りたいと願いました。
しかし、当時の社会は女性に厳しい時代です。
十分な収入がない彼女に親権は認められませんでした。
息子は亡くなり、娘とも離ればなれ。
結婚によって手に入れたはずの家族は、すべて失われました。
彼女の手元に残ったものは、旅行鞄が一つ。
数着の服。

そして、
「もう一度人生をやり直したい。」
という気持ちだけでした。
彼女はオランダへ戻ります。
ですが現実は厳しいものでした。

離婚歴のある女性。
職歴も資格もない。
仕事は見つかりません。
生活は苦しくなる一方でした。
そんなある日。
鏡の前に立った彼女は、自分の顔を見つめます。

「私には何がある?」
「美しさ。」
それは若いうちしか通用しない。
「他には?」
彼女は目を閉じます。
すると、一つの景色が浮かびました。

インドネシアの夕暮れ。
ガムランの音色。
黄金色の装飾を身にまとい、静かに舞う踊り子たち。
その姿を見たときの感動は、今でも忘れていません。
「そうだ……。」
「私だけが知っている世界がある。」
「ヨーロッパの人々は東洋を知らない。」
「その”未知”は価値になる。」
彼女は決意しました。

「舞台へ立とう。」
「ただのダンサーではない。」
「誰も見たことのない、”東洋の神秘”そのものになる。」
「そのためにはまず、過去の自分を全て捨て去らなければならない。」
マルガレータ・ゼレは、この日を最後に姿を消します。

そして数年後。
パリの劇場へ現れた一人の踊り子は、自らこう名乗りました。
「私の名前は、マタ・ハリ。」
マレー語で、「太陽」を意味するその名前は、やがてヨーロッパ中を熱狂させる伝説となっていくのです。
第4章 世界が恋をした踊り子

1905年。
パリ。
劇場の照明がゆっくりと落ちていきます。
客席には貴族。
軍人。
外交官。
実業家。
ヨーロッパ中の上流階級が集まっていました。
彼らが待っているのは、一人の踊り子です。
舞台袖で、マルガレータは静かに目を閉じます。
鏡に映る自分を見つめ、小さくつぶやきました。

「今日から私は、もうマルガレータじゃない。」
係員が声をかけます。
「出番です。」
彼女はゆっくりとうなずきました。
そして、舞台へ足を踏み出します。
太陽という名の女性

その日、劇場に現れた女性は、誰も知るマルガレータ・ゼレではありませんでした。
黄金色の装飾品。
異国風の衣装。
額には宝石。
首には幾重にも重なる首飾り。
ゆっくりと腕を上げると、劇場中が静まり返ります。
彼女は静かな声で名乗りました。

「マタ・ハリ。」
マレー語で、「太陽」という意味の名前です。
そして観客へ微笑みます。

「私はジャワ島の神殿で舞を学びました。」
それは事実ではありませんでした。
彼女はオランダ生まれです。
王女でもありません。
神殿で育ったこともありません。
しかし重要なのは真実ではなく、観客がそう信じるかどうかでした。
人は真実より、物語を愛する

二十世紀初頭のヨーロッパでは、東洋はまだ”未知の世界”でした。
新聞でしか知らない国。
地図でしか見たことのない島々。
だからこそ、人々は東洋に憧れました。
神秘。
宗教。
秘密の儀式。
美しい踊り。
マタ・ハリは、その幻想を完璧に演じたのです。

ゆっくりと舞い、祈るように両手を合わせ、音楽に合わせて一枚ずつ衣装を外していく。
当時としては非常に大胆な演出でした。
しかし、不思議と下品には見えません。
神秘的で、妖艶で、どこか神聖さすら感じさせました。
観客は息をのみます。

「こんな踊りは見たことがない。」
「彼女があの東洋の王女なのか。」

その夜が終わる頃には、劇場中が彼女の話で持ちきりになっていました。
パリ中が恋をした

翌朝。
新聞には大きな見出しが躍ります。
『東洋から現れた神秘の踊り子』

劇場には予約が殺到しました。
昨日は空席が目立っていた客席が、今では満席になります。
公演が終わるたびに拍手は長くなり、花束は山のように積み上がりました。
パリだけではありません。

ベルリン。
ウィーン。
ローマ。
マドリード。
ヨーロッパ中から出演依頼が届きます。
「ぜひ我が国でも踊ってください。」
その名前は、国境を越えて広がっていきました。
舞台を降りてもスターだった

人気が出ると、彼女の周りには多くの男性が集まるようになります。
銀行家。
実業家。
政治家。
将軍。
外交官。
舞台が終われば晩餐会へ招待され、高価な宝石が贈られ、豪華なホテルには常に花が届けられました。
ある晩餐会で、一人の貴族がグラスを掲げます。

「マタ・ハリ。」
「あなたほど魅力的な女性に会ったことがない。」
彼女は微笑みます。
「ありがとうございます。」
「また、幸せを掴むことができた!」
彼女は自分自身で掴み取った成功を嚙み締めました。
けれど、その笑顔の奥には誰にも見せない思いがありました。

「”マルガレータ”は、もうどこにもいない。」
「拍手されるのは、愛されるのは、求められるのは、私ではない。”マタ・ハリ”。」
彼女は少しずつ、演じることをやめられなくなっていきました。
人気には、必ず終わりが来る

ですが、流行は永遠ではありません。
一年後。
二年後。
三年後。
人々は少しずつ慣れていきます。
「例の東洋の女王か。」
「あの踊りなら前にも見た。」
さらに、若い踊り子たちが次々と現れました。

彼女の衣装を真似し、彼女の踊りを真似し、彼女と同じように”東洋”を演じ始めます。
人気者には、必ず模倣者が現れる。
それは今も昔も変わりません。
しかも、彼女たちは若かった。
マタ・ハリは三十歳を過ぎていました。
美しさを失ったわけではありません。
ですが、舞台の世界は残酷です。

新しいスターが現れれば、昨日までのスターは少しずつ忘れられていきます。
拍手は短くなり、出演料は減り、招待状も届かなくなりました。
最後に残ったもの

それでも一つだけ、彼女には失わなかったものがありました。
人脈です。
ヨーロッパ中の軍人。
外交官。
政治家。
実業家。
彼らは今でも彼女を知っていました。

「久しぶりですね、マタ・ハリ。」
「またお会いできて嬉しい。」
彼女は社交界へ姿を見せ続けます。
「私にはまだ、人脈がある。」
しかし、この人脈こそが、数年後、彼女の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ誰も知りませんでした。

1914年。
ヨーロッパに戦争の足音が響き始めます。
世界を熱狂させた踊り子は、やがて世界一有名な”女スパイ”として歴史へ刻まれることになるのです。
第5章 H-21 ― 女スパイ誕生

1914年。
ヨーロッパは火薬庫と呼ばれていました。
その火薬庫へ、一発の銃弾が撃ち込まれます。
オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナントの暗殺。
その事件をきっかけに、ヨーロッパ中が戦争へ突入しました。

第一次世界大戦
誰もが「数か月で終わる」と考えていた戦争は、終わるどころか年々激しさを増していきます。
国境は閉ざされ、人々は互いを疑い、昨日まで友人だった人間が、今日には敵になっていました。
そして、この戦争は一人の踊り子からも、舞台を奪います。
拍手が消えた日

劇場には以前ほど客が集まりませんでした。
人々は踊りを見る余裕を失っていたのです。
豪華な晩餐会も減り、貴族たちは軍への寄付を優先します。
公演の依頼は激減しました。

マタ・ハリはホテルの窓から雨のパリを眺めます。
机の上には請求書。
引き出しには、少なくなった現金。
「また仕事を探さなきゃ……。」
かつてヨーロッパ中が熱狂した踊り子も、戦争には勝てませんでした。
「あなたほど適任な女性はいない」

ある日のことです。
一人の男が、彼女のもとを訪ねてきました。
身なりは上品ですが、どこか軍人らしい雰囲気があります。
男は椅子へ腰掛けると、封筒を机へ置きました。

「あなたにお願いがあります。」
封筒の中には、多額の紙幣が入っていました。
マタ・ハリは男を見つめます。
「これは?」
男は静かに答えました。
「前金です。」
「敵軍の情報を集めてもらいたい。」
部屋に沈黙が流れます。
マタ・ハリは封筒を閉じました。

「……つまり、スパイになれ、と?」
男は笑います。
「そう捕らえて頂いても構いません。」
そして続けました。
「あなたほど、この役に適任な女性はいません。」
スパイに必要な条件

男の言葉は間違っていませんでした。
「マタ・ハリ、あなたには普通の人間にはない武器がある。」
「まず、あなたはオランダ人だ。」
「オランダはこの戦争でどの国にも関与していない中立を保っている。」
「つまり、あなたなら自由に国境を越えられる。」
「それにあなたは、オランダ語、フランス語、ドイツ語、英語、マレー語、複数の言語を話すことができる。」
「そして何よりも、あなたはヨーロッパ中の軍人や外交官と親しい。」
「そんなあなたになら、彼らは気を許すだろう。」
「気を許した相手になら、食事をしながら、酒を飲みながら、人は案外、秘密を口にしてしまうものだ。」
「その敵が漏らした秘密を集めてくれ。」
「これはあなたにしかできない仕事だ。」
情報機関から見れば、彼女は宝石のような存在でした。
H-21

マタ・ハリはしばらく考え込みます。
「危険な仕事…」
「見つかれば死刑になるかもしれない…」
「でも他に仕事はない…」
「貯金も減ってきている…」
「知名度だけでは生きていけない…」

「……分かりました。」
彼女は封筒を受け取りました。
こうしてドイツ情報機関へ協力することになります。
その時、彼女に与えられたコードネーム。
H-21
後に世界中の新聞へ載ることになる名前です。
しかし、この時の彼女は、その二文字が自分の墓碑銘になるとは思ってもいませんでした。
恋

そんな彼女にも、心から愛した男性がいました。
ロシア軍の若き航空士官。
ワジム・マスロフ
彼は彼女より二十歳以上も年下でした。
ある日。
二人はパリのカフェで向かい合って座っています。

「戦争が終わったら、どこへ行きたい?」
マタ・ハリが尋ねます。
マスロフは笑いました。
「どこでもいい。」
「君がいるなら。」
彼女も笑います。
久しぶりに、“マタ・ハリ”ではなく、“マルガレータ”として笑えた瞬間でした。
ですが、その幸せは長く続きません。

戦争が激しくなると、マスロフは前線へ送られます。
そして戦闘で重傷を負いました。
愛する人は遠く離れ、
戦争が二人を引き裂きます。
もう一つの誘い

そんな彼女へ、今度はフランス情報機関が接触しました。
「あなたはドイツ軍のスパイですよね?」
「えっ…」
「安心しろ…あなたを捕まえたいわけではない。」
「ドイツ軍の味方のふりをして、情報を集めてほしい。」
敵国からの依頼でした。
マタ・ハリがスパイに適任だという考えは、敵国フランスも同じでした。
マタ・ハリは驚きます。

「敵である私を信用するの?」
担当者は答えました。
「敵だからこそです。」
「ドイツ軍はあなたを信用している。」
「だから、あなたならドイツ軍の重要人物に近づける。」
さらに担当者は言いました。
「あなたの欲しいものはわかっています。」
「もう一度、マスロフに会いたいのでしょう?」
「もし成功すれば、マスロフとの再会を約束しましょう。」
その言葉に、彼女は目を閉じました。

「彼を助けたい。」
「そしてもう一度、彼に会いたい。」
その気持ちは本物でした。
彼女は静かにうなずきます。
「わかりました……やります。」
こうして彼女は、ドイツとフランス、二つの国へ関わるスパイ、つまり二重スパイになりました。
演じ続けた代償

しかし、マタ・ハリは勘違いしていました。
彼女は、自分が両国を利用していると思っていたのです。
「これでドイツからも、フランスからも報酬を受け取れる。」
「そしてマスロフも救える。」
「これほど都合のいいことは無い。」
そう考えていました。
ですが、本当に利用されていたのは誰だったのでしょう。
ドイツ情報機関にとって彼女は便利な道具でした。
フランス情報機関にとっても同じです。
彼女が集める情報は決して重要なものではありませんでした。
それでも、
「有名なマタ・ハリが味方についている。」
その事実だけで価値があったのです。

舞台の上では観客を楽しませるために”東洋の王女”を演じた彼女。
戦争が始まると、今度は情報機関のために”優秀なスパイ”を演じることになりました。
けれど、一つだけ違うことがありました。
劇場では拍手で幕が下ります。
しかし、スパイの世界では、幕が下りる時に待っているのは拍手ではありません。
銃口です。

そして1917年。
「H-21」というコードネームが記された一本の無線通信が、フランス軍によって傍受されます。
その瞬間から、世界一有名な踊り子は、世界一有名な”容疑者”へと変わっていくのでした。
第6章 裁かれた女

1917年2月13日。
パリ。
冬の朝はまだ暗く、街には冷たい霧が漂っていました。
ホテル・エリゼ・パレスの廊下を、一人の男が静かに歩いています。
ノック。

「マダム、少しお話があります。」
部屋の扉が開きました。
そこに立っていたのは、マタ・ハリ。
寝間着の上からガウンを羽織った彼女は、不思議そうな表情を浮かべています。
男は警察手帳を見せました。

「マタ・ハリさん。」
「あなたを逮捕します。」
部屋から笑顔が消えます。
「えっ、どうして……何かの間違いでしょう?」
男は首を横に振りました。
「容疑は、スパイ活動です。」

こうして、世界中を魅了した踊り子は手錠をかけられました。
拍手を浴びてきたその両手は、もう自由ではありませんでした。
H-21

取調室。
机を挟んで向かい合う二人。
フランス軍の検察官が、一枚の紙を机へ置きます。
そこには、ドイツ軍が送った無線通信の内容が書かれていました。
そして、一つの文字を指差します。
「H-21」
「このコードネームは、あなたですね?」
マタ・ハリは黙ったままでした。
検察官は続けます。

「ドイツ軍から金を受け取っていた。」
「ドイツ軍将校と接触していた。」
「各国の軍人と親密な関係にあった。」
「まだ否定しますか?」
しばらく沈黙が続きます。
やがて彼女は口を開きました。
「お金は受け取りました。」
検察官が笑います。
「認めるんですね。」
しかし彼女は首を横に振りました。

「でも、それはスパイの報酬じゃない。」
「戦争で失った財産の補償だと言われたの。」
さらに彼女は言います。
「私はフランスのために働いていた。」
「私はドイツだけのスパイじゃない。」
その言葉は事実でした。
彼女はフランス情報機関にも協力していたのです。
ですが、その説明を信じる者はいませんでした。
裁判

裁判が始まると、法廷は記者で埋め尽くされました。
誰もが知っている有名なダンサー。
しかも、美女。
踊り子。
愛人。
そして女スパイ。
新聞が飛びつかないはずがありません。
翌朝。
新聞の一面には、大きな見出しが躍ります。

「魔性の女スパイ、ついに裁かれる。」
しかし法廷で語られた内容をよく見ると、不思議なことがあります。

「彼女が重要な軍事機密を盗んだ。」
その決定的な証拠が、ほとんど出てこないのです。
証拠として示されたのは、ドイツ軍から金を受け取ったこと。
各国の軍人と親しかったこと。
そして、H-21というコードネーム。
確かに疑う理由にはなります。
ですが、それだけで「何万人もの兵士を死なせた」と断定できるのでしょうか。
法廷の空気は、すでに答えを決めていました。
彼女は無罪を証明するために裁かれているのではありません。
有罪にするために裁かれていたのです。
戦争が必要とした悪役

1917年のフランス。
戦争は三年目を迎えていました。
勝利すると信じて始めた戦争は、
終わる気配がありません。
若者は戦場で倒れ続けます。
食料は不足します。
人々は疲れ切っていました。
しかし、それに見合う戦果は上がっていません。
街ではこんな声が聞こえるようになります。

「政府は何をしている!」
「いつになったら戦争は終わるんだ!」
政府への怒りは日に日に大きくなっていました。
もしあなたが政府の立場なら、どうしますか。

「私たちの作戦ミスでした。」
そう認めるでしょうか。
おそらく違います。
人は失敗すると、原因を誰か一人に押し付けたくなることがあります。
国家もまた、例外ではありません。
その時、フランス政府の前には、あまりにも都合のいい女性がいました。
美しく、有名で、外国を自由に行き来し、軍人と親しく付き合い、派手な生活を送る、しかもドイツ軍から金を受け取っていた女性。

マタ・ハリ
彼女ほど”悪役”に仕立て上げるのにふさわしい人物はいなかったのです。

「戦争で戦果を上げられなかったのは、この女が敵国に情報を流していたせいだ。」
そう言えば、人々の怒りは政府ではなく、彼女へ向かいます。
そして何より、「敵国のスパイを捕まえた。」
その功績があれば、政府は国民の信頼を取り戻せる。
つまり、フランス政府にとって、彼女が無罪か有罪かなど、どうでもよかったのです。
政府が求めたのは責任転換。

そう、スケープゴートです。
判決

1917年7月25日。
裁判長が判決を読み上げます。
「被告、マタ・ハリ。」
「死刑。」
法廷が静まり返ります。
彼女はゆっくり目を閉じました。
泣き叫ぶこともありません。
取り乱すこともありません。
ただ、小さく息を吐いただけでした。
それから数日後、看守が彼女へ尋ねます。

「最後に誰かへ手紙を書きますか?」
彼女は恋人、ワジム・マスロフを思い浮かべたと言われています。
「もう二度と会えない。」
それだけは理解していました。
女スパイの正体

皮肉なことに、マタ・ハリは最後まで、自分を本物のスパイだと思っていたのかもしれません。
しかし現在では、彼女が集めた情報の多くは新聞や噂話程度で、軍事的価値はほとんどなかったと考えられています。
つまり彼女は、国家を滅ぼす伝説のスパイではありませんでした。
情報機関に利用され、戦争という巨大な渦に飲み込まれた、一人の女性だった可能性が高いのです。
それでも判決は変わりません。

1917年10月15日。
夜明け前。
ヴァンセンヌ城の処刑場へ向かう足音が静かに響きます。
そこには、プロローグで見た一人の女性が立っていました。
兵士が尋ねます。
「目隠しをしますか?」
彼女は微笑みます。
「いいえ。」
歴史上もっとも有名な銃殺刑が、
いよいよ執行されようとしていました。
最終章 悪女は誰が作ったのか

「構え!」

「撃て!」
十二丁のライフルが火を吹きます。
世界一有名な踊り子は、その場へ静かに倒れました。
41年の人生でした。

新聞は翌日、大きく報じます。
「女スパイ、マタ・ハリ処刑。」
人々は歓声を上げます。
「裏切り者が裁かれた。」
「これでフランスは救われる。」
誰もが、それを信じました。
その日までは。
戦争が終わると…

翌1918年。
第一次世界大戦は終結します。
世界は少しずつ平和を取り戻しました。
すると、不思議なことが起こり始めます。

「あれ……?」
「本当にマタ・ハリは大物スパイだったのか?」
歴史家たちが裁判記録を読み返します。
軍の資料を調べます。
ドイツ側の記録も分析します。
ですが、どれだけ調べても、フランスが裁判で主張したような「戦局を左右した女スパイ」という証拠が見つからなかったのです。

もちろん、彼女がドイツ情報機関と接触していたことは事実でしょう。
フランス情報機関へ協力したことも事実でしょう。
ですが、彼女が流した情報の多くは、新聞を読めば分かる程度の内容だったり、社交界で耳にした噂話だったり、軍事的価値の低いものばかりでした。
つまり、マタ・ハリは「スパイ」ではあっても、「選挙区を左右した伝説のスパイ」ではなかったのです。
誰が彼女を殺したのか

では、彼女を殺したのは誰だったのでしょう。
銃を撃った兵士でしょうか。
死刑を宣告した裁判官でしょうか。
彼女を逮捕した情報機関でしょうか。
もちろん、その全員が関わっています。
ですが、もっと大きな存在がありました。

「戦争」です。
戦争は人を疑わせます。
隣人を敵に変えます。
そして、複雑な問題を、たった一人の人間へ押し付けようとします。

当時のフランスは苦しんでいました。
戦争は終わらない。
若者は帰ってこない。
国民は政府へ怒り始めていました。
そんな時、政府には一つの成功が必要でした。

「敵のスパイを捕まえた。」
そのニュースは、国民へ希望を与えます。
怒りの矛先を変えます。
そして、その役に選ばれたのが、マタ・ハリだったのです。
彼女は嘘をついていた

ここで誤解してはいけないことがあります。
マタ・ハリは聖人ではありません。
彼女は、自分をジャワの王女と名乗りました。
神殿で育った巫女だとも語りました。
多くの男性から援助を受け、ドイツからもお金を受け取っています。

だから、彼女は決して「何も悪いことをしていない被害者」ではありません。
ですが、それと、「何万人もの兵士を死なせた史上最悪の女スパイ」であることは、まったく別の話です。
その二つは同じではありません。
マルガレータは、何を求めていたのか

ここまで彼女の人生を見てきて、私は一つのことに気付きました。
マルガレータが追い続けていたものは、お金ではありません。
名声でもありません。
ましてやスパイになることでもありません。

彼女が欲しかったものは、子どもの頃に失った、「安心して暮らせる場所」だったのではないでしょうか。
破産で家を失い、母を失い、教師になる夢を失い、息子を失い、娘を失い、夫を失いました。
そのたびに彼女は、新しい人生を始めようとします。

だから彼女は、踊り子になりました。
だから彼女は、マタ・ハリを演じ続けました。
だから彼女は、危険な仕事にも手を伸ばいてしまったのです。
彼女の人生は、野心の物語ではなく、「失ったものを取り戻そうとし続けた人生」だったように思えます。
なぜ悪人は生まれるのか

歴史には、悪人が登場します。
ですが、歴史にはもう一つ、「悪人に仕立て上げられた人物」も存在します。
社会が混乱すると、人は分かりやすい敵を求めます。
一人の悪役がいれば、複雑な現実を考えなくて済むからです。
その仕組みは、100年前だけの話ではありません。

現代でも、SNSでは誰か一人が悪者にされ、世論が一気にその人へ向かうことがあります。
私たちは本当に、その人のすべてを知った上で判断しているのでしょうか。
それとも、「悪役が必要だから」信じてしまっているだけなのでしょうか。

マタ・ハリは、世界一有名な女スパイとして歴史へ残りました。
ですが私は、彼女はもっと別の人物だったように思います。
一人の少女が、幸せを探し続け、何度転んでも立ち上がり、最後には国家という巨大な時代の流れに飲み込まれた。
そんな、時代に翻弄された一人の女性。
それが、マタ・ハリという人物の、本当の姿だったのかもしれません。

歴史は勝者によって書かれる。
そう言われます。
ですが、ときには歴史は、“誰かを悪役にすることで完成する物語”でもあるのです。
そして、その悪役が本当に悪人だったのかどうかは、100年経った今でも、私たち自身が問い続けなければならないのかもしれません。



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